月末はオンガク5

9月も今日で終わりですね。今日はバッハをご紹介します。バッハと言えばピアノを習っていた方ならあの、練習用音楽「インベンションとシンフォニア」が浮かぶかもしれません。左手が伴奏ではなく旋律を奏でる音楽です。右手と左手どちらも旋律!対位法という作曲技法があるのですがバッハはこれを極めた作曲家です。ショパンやリストのような華やかさはないけれども、バロックの傑作音楽をたくさん作りました。その中から、パルティータ第2番を今日は取り上げます。

バッハの演奏家といえばもう有無を言わさず、グレン・グールドなのですが、パルティータ2番ではこのかた、マルタ・アルゲリッチ が僕のおすすめです。Evening TalksというDVDがあるのですが、この中でアルゲリッチが話している時のBGMのような感じで流れていたものを聞いて衝撃が走りました。その映像の中で、アルゲリッチは「あなたのバッハはスウィングしている」と言われたことを話していました。スウィングするバッハ。バッハって1700年代の人間なのに。どういうことだ?という気持ちで引き込まれた名演奏です。6曲構成になっていますが、動画は5曲目のRondoと6曲目のCapriccioです。Capriccioが逸品!ちなみに動画は、Evening Talksのものではなく、スイスのスキーリゾート地のヴェルビエで夏に開かれる音楽祭のものです。2008年の演奏です。

陰謀!

内藤陽介さんのお話から。モーツァルトもあの一員だった、とか言われている謎の組織扱いのフリーメーソン。世界最古で最大の友愛組織と言われる親睦団体です。
フリーメソンは秘密組織。というと陰謀が渦巻いているようですが、そうではなくて、ある程度秘密の組織でなければならなかったようです。
もともとは石工、建築業の人々の組合だそうです。ヨーロッパで始まったもので、ヨーロッパの建築は石でできていますからね。そして、建築は政治と結びつきます。インフラ整備もありますからね。技術やデザインは知的所有権に関わるものの流出を防ぐためにギルドを作り、そこに厳しいルールがあってその名残が現在も残っているとのことです。その名残がマークです。直角定規とコンパス。さらに組合員の呼び方、徒弟(Entered Apprentice)、職人(Fellow Craft)、 親方(Master Mason)。石工の組合の制度を引き継いでいます。集会には石工のエプロン(腰回りに)。
知的財産を守るためには秘密であることは当然。
近代になるとここに、知識人や貴族たちが入会してきて、友愛団体に変わります。しかし、ここで問題が。自由、平等、友愛、寛容、人道の基本理念のもとに宗教の枠を超えるというものがあります。現代の人間から見れば普通のことですが、当時はフランス革命前であり、このような理念を表立って訴えればどうなるか。フランス革命以前では危険思想です。社会体制が変わってしまうわけですから。自由思想ということでカトリック側と対立します。フランス革命後にはその革命に関わった人にはフリーメーソンの会員もいました。カトリック側からすると、フリーメーソンは陰謀の組織になるようです。
プロミネンスの目。三角形の中に目があるマークで、ユダヤがーとかフリーメーソンがーとなるあのマークですが、キリスト教社会では普遍的なマークとのこと。三角形は三位一体で、あの目は神の目であり、世界の摂理を見通している目です。そのうち、神は死んだから、理性の力で摂理を見通す目となります。啓蒙思想と変化です。
反革命派から見ると啓蒙思想なんて危険思想なので、陰謀論をプロパガンダしたのです。王族や大地主たちは、あいつらにやられたとプロパガンダするわけです。
大学の時から不明だった、フリーメーソンでしたが、よくわからない研究書を読まなくてよかった!時間が失われず、怪しげな陰謀論に引っ張られずに済んだ!

007

一昨日の日曜日にちょろっと話し出したインテリジェンス。情報活動または諜報のことを言います。情報を分析して政策決定者に渡す。そういったもののことをインテリジェンスと言います。スパイ映画を思い浮かべていただけると良いと思います。スパイなんてと思われるかもしれませんが、現実にスパイは存在しましたし、現在もスパイが暗躍しています。戦時中の日本で有名なスパイは何と言っても、リヒャルト・ゾルゲでしょう。さらに尾崎秀実(おざきほつみ)。

久しぶりに頭の中から引っ張り出しましたが、これをほっておく手だてはない、ということで早速その関係の本を読み出しました。10数年前に目をつけていたのですが、諸事情という怠惰により手付かずでした。10年後、身の回りでインテリジェンスに関する情報をよく聞くようになって、10年前にやっておけばという後悔がよぎりました。それと同時に、いいところに目をつけてたなぁ、なんて自惚れも。昨日に引き続き(笑)

2冊ほど買っておいた本があったのでまずはそれから読み進めています。ほしい物リストにはピックアップしておいたものがさらに数冊。しかし、インテリジェンスの研究は海外、アメリカやイギリスがメイン。ということで、翻訳されていないものも多いのですね。つまり、原典を読めということのようです。日本語の文献をいくつか読んで、言葉に慣れたところで格闘してみます!

ブックレビューというか、喜び。

ご無沙汰しております。
今日は先日届いた本の紹介をします。
伊藤隆『歴史と私』中公新書です。
僕が日本史のどこを専攻したかということですが、近代です。明治・大正・昭和(戦前)が射程範囲です。最近は明治の本ばかり読んでいるので、そこを深めていこうとも思うのですが、やはり昭和は離れられませんね。満州事変を卒論でまとめようとしましたが、路線変更で第1次大戦と第2次大戦の間の大正から昭和の空軍について調べたのが卒論でした。このテーマはまだ深めてみたいものの一つですね。誰もやってないから価値がないという評価と、誰もやってないからやる!卒論を書いたときは後者です。当時の僕には、そのテーマの論文等が見つけられなかったので。
さて、本題。伊藤隆先生は鳥海靖先生と並んで近代史の良心と言われます。今回は伊藤先生の本を読んでいるわけですが、先生の歩まれてきた研究者としての半生がまとまっており、非常に面白い。もちろん、歴史学をかじった人間にとってです。一般の方にはお勧めできません。今日は喜びなのですが、この本に出てくる著作はやはり読んでおかねばいけないという発見と、どの研究者の本を読もうかという指針になりました。そして、僕が大学の時に師事した先生は伊藤先生と共に仕事をされていらした方々ばかりでした。近代史の良心と言われる先生と仕事をなさっているのだから、その路線は間違ってはいないだろうということです。もし、大きな違いがあればそう一緒に仕事ができるわけはないと思いますので。
伊藤先生と伊藤博文の史料で仕事をされた沼田哲先生(卒論指導教授)、小林和幸先生(沼田先生の弟子、貴族院の研究がご専門、山県有朋の史料で伊藤先生とお仕事)、そして、次はこのブログの筆者である僕(笑)?

将来の楽しみと研究の展望が少し見えた読書の時間でした。

なご2

1945年8月17日のインドネシアの独立宣言は皇紀で年号が示されていました。それは、降伏文書の調印を終えて連合国に引き渡して武装解除するまでは日本の施政権下にあったからです。そうするとおかしなことがあります。8月17日はまだ日本の施政権下なのに、独立宣言がなぜ出せたのか。これは、敗戦国の日本が黙認したのと、インドネシア側も形を作っておく必要があったからです。連合国がやってくると、独立が妨げられるもしくは戦争になるもしれないというので、形式上独立宣言を発表したということです。

インドネシアでは1943年にPETA(郷土防衛義勇軍)というのが作られました。これには日本軍が訓練を援助したり、敗戦後には脱走兵として加わった軍人もいました(大東亜共栄圏の理想に惹かれた人もいたので。参加者は1000人程度。1947年5月まで引き上げに時間がかかっていますので、敗戦後もしばらく日本人・軍がいました)。脱走兵と書いたのは、連合国と日本との間では違法ですから、制度上脱走兵(反乱軍)です。インドネシアの独立のために戦ったのですが、そこで戦死した人には遺族年金が与えらませんでした。インネシ独立戦争に際し、オランダ側の軍人として戦った日本兵(正規軍)もいました。その人たちで戦死された方々は靖国神社に祀られています。独立戦争で命を落とした日本兵、参加した日本兵(生き残った人で希望者)はカリバタ英雄墓地に埋葬されます。これはインドネシアの最高の栄誉です。インドネシアでは英雄です。

これを踏まえると①「大東亜共栄圏」という輝かしい理想を掲げ、大日本帝国がアジアの解放のためにオランダ軍からインドネシアを…といってインドネシアの人が日本に感謝してますと「日本人」がいうのはおかしなことがわかります。インドネシアのために戦った人もいれば、そうでない人もいるわけです。もちろん、独立に際し、憲法を起草させたり、軍事訓練を行ったりして独立に役立てたことはありますが、だからと言って、日本人からインドネシアが日本に感謝しているというのはいかがなものかということでした。

日本の保守系の言論に、「日本軍に感謝している」といったことに出会ったら、疑ってかからねばなりませんね。もちろん、日本は一方的にダメだという言説にも注意が必要ですが。背景を知ってどういう状態であったのかを把握せねば、物事の善悪は判断できませんね。どこが良くてどこが悪いのかを見つけねば。

なご1

2020年はインドネシア独立『75』年です。8月17日が独立した日です。んんん?75年前の8月17日だって?それって1945年8月17日ですよね。今日はこの辺りの成果をまとめます。内藤陽介さんのお話から。

インドネシアは蘭印と呼ばれて、オランダの植民地でした。①そこへ「大東亜共栄圏」という輝かしい理想を掲げ、大日本帝国がアジアの解放のためにオランダ軍からインドネシアを…とか、②インドネシアのお金に独立宣言が印刷されていてそこに「05」という数字があって、それは「皇紀」2605年なんだ。だからインネドネシアは親日で…

というのは、果たしていかがなものか。

①②のようなことを掲げて大日本帝国を語って気持ちよくなりたい人もいますが、実際はそうではありません。日本はインドネシアを占領しますが、その目的は石油の獲得です。戦前日本はアメリカから石油を輸入していましたが、フランス領インドシナ(ベトナム)への進駐をきっかけにアメリカから石油輸出禁止という措置をくらいました。ですから石油が足りなくなって、獲得のためにインネシへ向かったわけです。そこでインネシを占領しました。

1945年3月、戦況が怪しくなってきているところで、日本は方針を変更します。石油資源の獲得ではなく、親日国を作り出そうとするのです。そこで、占領当初に解放しておいた国家主義者たちの力を借ります。彼らに独立憲法を審議させたり、軍事訓練などをして結果的にその後の独立の際に役立つことになりました。45年8月7日にスカルノが独立準備委員会を作って、第1回の会議を18日にしようと決めました。しかし、15日に玉音放送があり、日本の軍政当局が進めた独立準備が中止になります。そこで17日にスカルノが独立宣言を発表しました。

さて、ここだけ見ると、なんだ日本がきてインネシは独立したじゃないか。日本軍が準備手伝ってやってるじゃないか。ふむふむ、日本は立派だなぁと思うかもしれませんが、そこが重要なポイントです。行政上の仕組みが関わってくるのです。これを知らないとただのネトウヨです。8月15日に玉音放送で終戦を迎え、その後は武装解除しなければならないのですが、それは連合国がやってきて彼らに引き継ぐという手続きを終えてからです。その手続きをするには正式に休戦してから降伏文書に調印しなければなりません。だから、15日の玉音放送で終戦、それではさようならと言って日本に帝国軍が帰るわけにはいかないのです。降伏文書に調印調印し、連合国側に引き渡してそれからさようならと言って引き揚げるわけです。『近代』の軍であり、軍も役所なので、正式な手続きを踏まなければならないのです。

さて、そこで、②皇紀2605年です。皇紀とは、神武天皇が即位した年を元年として数えていく年号です。インネシの独立宣言に2605年8月17日とあるのは、親日だからでも、独立解放を日本に感謝しているからでもありません!8月17日は、まだ日本の施政権下にあったのです。降伏文書に調印して連合国が来るまでは、当事国が治安維持なりに当たるのが正式なルールなのです。当地に責任を持つのです。ですから、8月17日の独立宣言は日本の施政権下で出されたものであり、その時の公式文書として皇紀が使われたのです。

続きは、なご2で。