月末はオンガク6

早いことで10月ももう終わりでカレンダーは残すとこあと2枚ですね。今日ご紹介する音楽は、2楽章で30分弱の曲ですが、2楽章のショートバージョンです。お気に入りになりましたら是非、全曲を通して聞いてみてください。今日はまず楽器の紹介から始めます。
FAZIORIというイタリアのピアノです。世界のピアノメーカーでは、STEINWAY(アメリカ)やBösendorfer(オーストリア)といったところが有名で老舗ですが、このFAZIORIはイタリアの家具屋さんだったピアノメーカーです。家具を作るので、木にとても明るい。それでピアノを作ってみようというところから始まったようです。ピアノの世界では新興のメーカーです。1981年に創立ですから、ヤマハやカワイよりも新しいわけです。このFAZIORIはイタリアのピアノということで、音の特徴は「明るい音」と言われます。2010年からショパンコンクールでも使われるようになりました。
今日のピアニストはポルトガル出身のマリア・ジョアン・ピリスです。彼女はすでに引退を表明して公の演奏活動はしていません。ショパンのノクターン2番(月末はオンガク1)を彼女の演奏で聴くと譜面どおりの正確さでありながらもその息づかいというか、「間(ま)」が自然であり、息を呑む美しさなのです。さらにピリスは、僕の苦手なモーツァルトの演奏で非常に有名な演奏家です。
あの2011年に僕は彼女の演奏を聴くべくチケットを取っていたのですが、東京電力福島第1第2原発の事故の影響によりコンサートが中止になるという憂き目に遭いました。時は流れ、ある時何気なく調べていたら2017年の12月に「ピリス引退」のニュースを発見し急いで公演を探すと東京と大阪の公演を見つけました。東京はサントリーホールでモーツアルトという僕の苦手な組み合わせのオンパレードでした(サントリーホールはピアノの演奏でいい思い出がないのです)。しかし、そんなことは言ってられない、二度とライブが聞けなくなるなら一度は聞いておかなければという思いで公演を検索すると、幸か不幸かさすが東京、すべて売り切れていました。そこで、大阪公演を検索したら、なんとまあチケット残ってるではないですか!しかもシューベルト!ピリスのシューベルトか、悪くないぞと思い頭の中をシューベルトに切り替えていたら、コンサートが近づくとベートーベンのソナタ、悲愴、テンペスト、32番の3曲に変更。ううん、正直困った。悲愴やテンペストはある意味聞き飽きているというか、ありきたりという感じ。そして、32番て「ハンマークラビーア」だっけ?なんて思っていたのですが、調べたらハンマークラビーアではなく、最後のソナタでした。ハンマークラビーアは29番でした。そんなことがありまして、まあ、アンコールで幻想即興曲とか幻想ポロネーズ(アンコールには重い!)かなんか弾いてくれるだろう、なんていう浮ついた気持ちで行ったわけなのです。公演が始まるとその1音目から僕の浅はかな考えは砕け散りました。1楽章ずつ終わるごとにこの宝石のような時間の終わりを感じずに入られませんでした。だんだんとプログラムは進み最後のソナタ32番です。1楽章。そして最後の2楽章。ソナタ32番の1音目からもうダメでした。そして演奏は進み、

音楽が見えた…という二度目の経験です。一度目は、初めて聞いたフジ子・ヘミング。そこにはただ、美しい音楽がある。それだけなのです。

ピアノはファツィオリ で、ポルトガル出身のピアニストが弾くベートーベンのソナタ32番2楽章をご紹介したします。クラシックがジャズに聞こえる名演です。ジャズに聞こえたらクラシック失格でしょうが素晴らしい演奏の一つです。どうぞお聞きください。

ひとりごと

勉強が進んでいくとさらにもっともっとやることも増えてきますね。終わらない終わらない。来月初頭には大きな変化があるのかないのか、ドキドキします。
ですが、わかったことは、変わろうと変わるまいと確固とした土台があれば大したことはないのです。
結局、歴史の話を書いてしまいそうです。
日清戦争、北清事変(義和団という拳法団体がが中国で外国人排斥運動を始めてそれが国どうしの小競り合いに発展した事件)、日露戦争を経て、幕末に結んだ不平等条約を改正することに成功しました。
日露戦争あたりでは、日本の立場は国際政治でいう主体(Actor)でした。さて現在は…
アジア太平洋においては、チャイナとアメリカがActorで、日本はTheater(場)でしょうね。
彼の国の大統領選でどちらが勝つかばかり話題になっているようです。どちらが勝とうが、それでどうするか、何ができるか、ということを話題にした方が健全というか、賢いように思えます。どうする?と考えていれば、おのずと自分から何かをするActorになっていけるはずです。
Theaterであるということは、何もできないということです。それよりも自ら自由に何かができる方がよほど楽しいように思えますが、いかがでしょうか。

では、今日も勉強、明日も勉強、毎日勉強!

過去の出来事から現在を見て、感想としたら、今日の投稿は、学びの成果!と言えますかね。

書評のようなもの。

前回の記事にあげました、井上寿一『第一次世界大戦と日本』を読み終わっての感想です。この本は、第1次世界大戦周辺の日本を中心に関わりのある世界情勢を描いています。そして、その時代を政治・外交だけでなく、社会や文化も書かれています。短い文の積み重ねで、リズムよく読めるます。あまりにも専門的過ぎることは出てこないので読みやすい本であることは確かです。
政治・外交・軍事・経済・社会・文化に分けて大正時代を描いています。政治外交軍事に関しては、前回の記事を踏まえ物足りないのですが、経済社会文化に関しては、非常に面白く読めました。こちらの部分は自分の知識が足りないこともあるのだと思いますが、この手法はブルクハルトの『イタリアルネサンスの文化』に通ずるものがあります。ブルクハルトのこの本は、時代の様子を読者が眼前に映像として再生できるように説明しているのですが、まさにそんな感じです。
大戦景気、格差社会、都市問題この辺りは勉強になりました。成金の出現とその後の不景気への対応、都市の職業の中での格差と地方の格差など。教科書や受験問題では登場しない部分を提示することで、時代の像がより鮮明に見えるようになりました。といっても、まだたかだか一冊の本を読んだだけなので、たかが知れていますが。
歴史は政治外交経済がメインストリームですが、そこから漏れるところを知ることでより時代の像がくっきりと姿を現します。僕は、こういった政治史中心の歴史をミクロヒストリーと呼びますが、この本はマクロヒストリー(政治外交だけでなく、その時代の様子をくっきりと描くため、多くの人間の視点を集め、文化社会までを包含した歴史)を描くチャレンジ作であったと思い、楽しく読めました。

成長の兆し?

今日は読んでいる途中の本と、成長の成果を目視できない頭のことを徒然と。
井上寿一『第一次世界大戦と日本』講談社現代新書を読んでおります。1914年前後からの話で、日本では大正時代のことです。高齢76歳の大隈重信さんが二度目の首相を務められ、第1次世界大戦に参戦することを決定しました。
さて、本の内容なのですが、サラサラと短文で当時の状況をまとめているのは良いのですが、どうも繋がりがよろしくない。まだ読み始めて100ページにも満たないのですが、自分の知識と照らし合わせてしっくりこないのです。
第2次大隈内閣では、対華21ヶ条の要求を袁世凱(えんせいがい)政府(チャイナ)に提出しました。その背景には、チャイナの混乱ぶりがあり、国際法を守らないという事実があったはずなのに、その点はほぼ無視。さらに、その後この要求を受けてアメリカとの関係が悪化していくのですが、そこに石井ランシング協定が結ばれ、アメリカの動きを抑えていくはずなのですが、無視。
はて、どういうことでしょうか。
さらに、脱亜論の評価がおかしい。なぜ福沢さんはアジアの悪友を謝絶したのか。福沢さんの行動を見ていたらその理由も納得なのですが。福沢さんは、身銭を切って朝鮮の近代化を応援しており、留学生を育てておりました。その留学生が無残にも殺されて、脱亜論が書かれるのです。
井上寿一さんは脱亜論は蔑視という視点で書かれておられるようなのです。確かに明治時代に生きた一般人には、福沢さんの書いた文字上の意味しか受け取れず判断(朝鮮を蔑視)をしていたとしても、実際はそうでないことに触れるべきではないでしょうか。

なんともフワフワした本ではありますが、批判的検討という意味で読み進めていき、かつ自己の認識の欠点も見つめてみたいと思います。こういう風に歴史を眺めることができるようになったのも、知識がついてきた証拠と思いたい!しかし、まあ、知らないと何もわからず、ただ「そうなんだー!」で終わるのが歴史なのですが、事実を突き合わせてだいぶ考えられるようになってるじゃないか。15年前にこのくらいできてたらなぁ。それにしても、いい教材が巷にうようよしているおかげです。